城丿縁 第一シーズン・第二章

帰り道のつづき

全6話 読了目安 約15分

夕暮れの車窓から見える山町の駅と町並み
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第二章

第1話 知らない町

町を歩いていると、
気づかないまま
通り過ぎてしまう坂がある。

八月の午後。
陽向は二年ぶりに、
その町へ降り立つ。

駅前のパン屋には、
見覚えのない青い看板。
角の文房具屋は、
白い壁の喫茶店。
店先の赤い丸椅子も、
もう、どこにもない。

変わらないものは、
靴底へ返る道の熱。
幾重にも重なる蝉の声。
駅前の古い時計だけは、
今日も三分遅れのまま。

「帰ってきたね」

母の声。
けれど返事はない。

陽向は町の角を、
ひとつずつ目でたどる。

小学五年の春まで、
ここが暮らしの全部だった。
川で靴を濡らした日。
祭りで母を見失った夜。
どれも今なお、
記憶の中に残っている。

それなのに、
祖母の家へ続く
最初の角だけが、
どうしても見つからない。

第二章

第2話 閉じた部屋

二年前、両親が別れ、
陽向は母と町を離れた。
それ以来、
町の話は口にしない。

懐かしいと言えば、
今の家を裏切る気がする。
知らないと言えば、
昔の自分まで
置いていく気がする。

どちらも言えないまま、
母の半歩後ろ。

交差点の向こうを、
本の間から白い紙を
のぞかせた少女が通る。
風が吹くたび、
その端だけが小さく揺れる。

少女の背を追う視線。
その先、商店街の奥に、
細い階段が見えた。

見覚えは、確かにある。

ただ、
どこで見たのかだけが、
思い出せない。

祖母の家の風鈴は、
二年前と同じ場所。
少し右へ傾いたまま。
廊下の傷も、
柱の小さなへこみも、
消えずに残っている。

「部屋は、
そのままにしてあるよ」

祖母の声を背に、
陽向は二階へ。

色あせた昆虫図鑑。
片翼の欠けた飛行機。
机の端には、
鉛筆で引かれた細い道。

柱には背丈の線が五本。
一番上の、その横に、
幼い文字。

〈十歳 ひなた〉

今の肩より、
ずっと低い場所。

陽向は線へ手を重ねる。
指先だけが、
昔の自分に触れたようで、
すぐに手を離す。

押し入れの奥には、
青い箱がひとつ。
曇ったビー玉。
短くなった色鉛筆。
錆びた小さな鍵。
折り目だらけの地図。

川。駄菓子屋。祖母の家。
陽向は昔から、
知らない道に出会うと、
紙へ描く癖があった。
けれど地図の線は、
商店街の裏で、
ぷつりと途切れたまま。

「明日、川へ行く?」

夕食のあと。
祖母の静かな問い。

「行かない」

「お祭りは?」

「別に」

祖母は何も足さず、
冷えた西瓜だけを置く。

夜。
風鈴の音で目が覚める。
窓の外には、
点々と続く町の灯り。
その隙間に、
昼間の階段が浮かぶ。

陽向は地図を開き、
途切れた線をなぞる。
昼間の階段と、
線の終わりが重なる。

地図の先。
まだ線のない道。

錆びた鍵だけが、
陽向の手の中で冷たい。

第二章

第3話 数えられない坂

翌朝。
陽向は地図と鍵を持ち、
誰にも告げず家を出る。

商店街の店は、
まだ半分ほど眠りの中。
打ち水の跡が朝日に光り、
駅前の古い時計は、
今日も三分遅れのまま。

昨日の階段は、喫茶店の裏。
地図の途切れた場所と、
ぴたり重なる。

陽向は段を数えながら、
ゆっくり上っていく。

二十七、二十八、二十九。

木の上で蝉が鳴き、
数がぼやけてしまう。
やり直そうとして、
なぜか、やめる。

上るほど、町の音は遠くなる。
近くなるのは、葉の擦れる音と、
自分の息だけ。

最後の段を上ると、
風の流れが変わる。

木々の隙間から、やわらかな光。

その先に、小さな祠と古い縁側。

木漏れ日の中に、ひとつの姿。

傍らには、小さな湯飲み。

その姿は、
陽向の手にある鍵へ
視線を落とす。

葉の影は、尖った耳のよう。

子どものようでもあり、
ずっと年上にも見える。
ふとした瞬間には、
狐を思わせる影。

けれど風が通れば、その印象も、
すぐ曖昧になる。

すぐそばで、小さな金色が、
一度だけ光る。

眼下には、坂の下の町並み。

「その鍵、
何を開けるの?」

「わからない」

その姿――城丿縁は、
今度は陽向の顔を見る。

「そう」

祠を抜ける風。
葉の裏が、一斉に白くなる。

しばらくして、城丿縁が尋ねる。

「帰り道は、
わかる?」

「来た道を、
戻ればいい」

城丿縁の視線は、坂の下へ。

「それは、
来た道だね」

その先の言葉はない。

遠くの町内放送が、
祭りの準備を告げる。
最後の音だけ、
蝉の声へまぎれていく。

第二章

第4話 百年後の忘れ物

陽向は縁側に、腰を下ろす。

膝の上には、途中で切れた地図。

ポケットには、錆びた鍵。

「町、変わった」

城丿縁は、
坂の下を見たまま。

「そうかもしれないね」

「僕の知ってる場所じゃ
なくなった」

「そう見える日も、
あるみたいだね」

言葉はそこで途切れる。
二人の間に残るのは、
町の音だけ。

陽向は地図の端を指で押さえる。

「帰ってきたって
言われても、
帰った感じがしない」

城丿縁は、何も足さない。

陽向が視線を落とす。

縁側の下では、枯れ葉が一枚、
ゆっくり裏返る。

その隙間に、錆びた缶の角。

陽向は身をかがめ、
表面の土を払う。

蓋には、子どもの文字。

〈百年後にあける〉

自分の鍵を差し込む。

けれど、鍵穴には合わない。

しばらく見つめたあと、
陽向は鍵をポケットへ戻す。

朝の光を返していた
小さな金色が、
縁側の端にある。

小さな鍵。

陽向が見つめても、
城丿縁は何も言わない。

「これ、
使ってもいい?」

城丿縁は何も答えず、
湯飲みを両手で包む。

二人の間を、ひと筋の風が通る。

陽向は鍵を手に取り、
缶の鍵穴へ。

かちり。

陽向は小さな鍵を抜き、
元の場所へそっと戻す。

缶の中には、
丸い石。
折れた鉛筆。
金魚の絵の紙袋。

その下には、四つ折りの紙。

陽向は、ゆっくり開く。

〈おおきくなった
ぼくへ〉

〈わすれても、
ここにいるよ〉

書いた記憶はない。

けれど文字の癖は、
確かに自分のもの。

陽向は指で、十歳の自分の文字を
ゆっくりなぞる。

「百年、
たってない」

城丿縁は、静かに言う。

「少し早かったね」

それだけ。

陽向は紙を畳まず、
膝の上へ戻す。

もう一度、
紙の文字へ目を落とす。

風が通っても、その言葉だけは、
膝の上から動かない。

立ち上がった拍子に、
ポケットの奥で、
かすかな金属音。

振り返るほどではない、
小さな音。

やがて、蝉の声へ溶けていく。

第二章

第5話 新しい線

陽向は手紙だけを、
古い地図にはさむ。

丸い石と折れた鉛筆、
金魚の絵の紙袋は、
元どおり缶の中へ。

蓋を閉じる前に、
城丿縁へ目を向ける。

その視線は、
坂の下の町へ。

陽向は蓋を閉じ、
缶を縁側の下へ戻す。

地図の端には、
波のような印。
そこから伸びる、
川へ向かう細い線。

幼い頃、父と遊んだ川へ続く道。

その道が今も、
残っているのか。
確かめたくなる。

祖母の家へ戻り、
青い箱を開く。

短くなった色鉛筆から、
青色を一本選ぶ。

その日の午後。
地図と鉛筆を持ち、
もう一度、町へ出る。

軒先には、
祭りを待つ提灯の影。

古い地図の線をたどり、
町の奥へ歩いていく。

空き地には小さな家。
駄菓子屋の跡には、
小さな駐輪場。

記憶と景色は、
少しずつ、ずれていく。

やがて塀の前で、
昔の道が途切れる。

けれど向こう側から、
かすかな水の匂い。

少し戻れば、
新しい木の柵の脇に、
川へ向かう細い坂道。

陽向は地図を開いたまま、
その道を下りていく。

木々の隙間から、
午後の川が見えてくる。

川面の光が地図の余白を揺らす。

石を投げた岸辺も、
父と座った木陰も、
記憶とは少し違う。

それでも水音だけは、
あの日と同じ近さ。

古い線は消さず、
その隣へ、
青い色鉛筆で、
今日の道を描き足す。

二つの線は、
同じ川辺で、ひとつに。

もう、知らない町とは
呼べない。

第二章

第6話 また来る道

帰る朝。
祖母の家の風鈴が、
細い音を残す。

陽向は手紙と地図を重ね、
鞄へ丁寧にしまう。

錆びた鍵も、
内ポケットの中へ。

母が玄関から呼ぶ。

「そろそろ行くよ」

「先に駅へ行ってて」

陽向は最後にもう一度、
百段坂を上っていく。

二十七、二十八。

蝉の声が重なっても、
今度は数え直さない。

木々の隙間から、
やわらかな朝の光。

祠の縁側には、
町を眺める城丿縁

陽向は隣へ腰を下ろし、
地図を膝の上へ。

古い地図の上に朝の光が落ちる。

古い線の隣には、
昨日描いた青い道。

城丿縁が尋ねる。

「帰り道は、
わかった?」

「まだ。
全部じゃない」

陽向は指先を、
青い線の上へ。

「でも、
続きは描ける」

城丿縁の視線は、
青い線へ。

「そう」

短い返事のあと、
二人の間に、
朝の町の音が戻る。

陽向は地図を畳み、
ゆっくり腰を上げる。

「また来る」

城丿縁は何も足さず、
小さく頷く。

駅前の古い時計。
その下では、
母が陽向を待っている。

「帰るよ」

「うん」

陽向は鞄の上から、
地図の形を確かめる。

「今度は、
もう少しゆっくり
歩きたい」

母は少し驚き、
それから町を見る。

「そうだね」

改札へ向かう途中、
赤いポストの前に、
一人の男。

封をした手紙は、まだ片手の中。

陽向は一度だけ、
その横顔を振り返る。

電車が動き出す。

窓の向こうで、
町の屋根が小さくなる。

地図の中には、
昔の道と今日の道。

どちらも消えず、
同じ川へ続く二本の線。

坂の上では、
湯飲みの縁に、
夏の光が揺れている。

そして今日も、
城丿縁は誰も呼ばず、
誰かを待っていた。

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