城丿縁 第一シーズン・第一章

願いが進む日

全5編 読了目安 約15分

夕暮れの町を見下ろし、白い短冊を手にする少女
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第一章

前編① 白い短冊

町を歩いていると、
気づかないまま通り過ぎてしまう
坂がある。
心が少し道に迷ってしまった日にだけ、
その坂は、
ずっとそこにあったことを
静かに思い出させてくれる。

入口に看板はない。
商店街から少し外れた路地の先で、
木々の影がほんの少し
深くなっているだけだ。

急いでいる人は、
そのまま通り過ぎる。
けれど、ふと空を見上げた人だけが、
足を止めることがある。

百段坂。
町の人はそう呼んでいる。
けれど、
最後まで数えられた人はいない。

七月になると、
商店街には大きな笹が飾られる。
色とりどりの短冊が風に揺れ、
風鈴の澄んだ音が
町のあちこちで響く。
子どもたちの笑い声。
蝉の声。
店先から聞こえる話し声。
町は少しずつ、
夏の色へ変わっていく。

その賑わいの中を、
小学五年生の紬が歩いている。
手にしているのは、
一枚の白い短冊。
何度見つめても、
そこにはまだ、
何も書かれていない。

周りには、

「サッカーが
上手になりますように。」

「家族みんなが
元気でいますように。」

それぞれの願いが、
夏の空の下で揺れている。
けれど、
紬の短冊だけは白いままだ。

願いがないわけではない。
ちゃんと、ある。
ただ、
言葉にできない。

昨日の帰り道。
夕焼けに染まる道で、
ほんの小さなことから
美羽と言い合いになった。
どちらが悪かったのかは、
もう思い出せない。

覚えているのは、

「もう知らない。」

そう言ってしまった自分の声と、
何も言わずに歩いていった
美羽の後ろ姿だけ。
美羽の歩く速さは、
いつもと変わらない。
町も、風も、
蝉の声も変わらない。

変わってしまったのは、
隣を歩く足音だけ。

その夜、
紬は小さな画面を
何度も開いては閉じた。

『ごめん。』

三文字を書いては消し、
また書いては消した。
送信の文字は、
指を少し伸ばせば届くはずの場所。
それなのに、
その少しが、
ひどく遠く感じる夜。
朝になっても、
三文字は送れないまま。

そして今、
紬の手には白い短冊がある。
願いは、ある。
ちゃんと、ある。
けれど、
言葉にした途端、
壊れてしまいそうで……。

風が吹く。
商店街の短冊が、
いっせいに揺れる。
その中で、
白い短冊だけが
まだ言葉にならない気持ちを
抱いたまま、
小さく揺れている。

第一章

前編② 百段坂の先

風鈴が鳴る。
一つ。
また一つ。
澄んだ音が、
商店街の軒先を
ゆっくり渡っていく。

紬は、
何も書かれていない
短冊を手に、
その音を追うように
歩いている。
見慣れた道の脇に、
ふと、木々へ続く
細い道が目に入る。
入口に看板はない。

町の中に昔から
あったように見える道。
けれど昨日までは、
気づかなかった道。

「こんな道、
あったかな。」

紬は足を止める。
後ろでは、
商店街の声が続いている。
前には、
葉の重なる音と、
細い石段が見える。

少し迷い、
紬はその道へ足を向ける。

一段。
また一段。
数え始めたはずなのに、
葉が揺れるたび、
鳥の声が聞こえるたび、

「あれ、
今いくつだっけ。」

紬の口元が、
少しだけゆるむ。
もう一度数え直しても、
すぐに分からなくなる。
坂を上るほど、
町の音は遠くなり、
葉の揺れる音が近くなる。
胸に残るざわつきも、
ほんの少しだけ
遠ざかる気がする。

どれくらい上ったのだろう。
木々の間から、
夏の町が見える。

坂を上りきると、
小さな祠が
静かに佇んでいる。
その前には、
町を見渡せる狭い広場。
広場というには小さく、
誰かが少し
腰を下ろすために
残されたような場所だ。

風が葉を揺らし、
木漏れ日が石段へ
やさしく落ちている。
縁側には、
湯呑みがひとつ。
その湯気だけが、
夏の空へ
静かに溶けていく。

誰もいない。
それでも、
誰かがずっと前から
ここにいるような
気配だけが残っている。
紬は足を止める。

「こんにちは。」

やわらかな声が、
すぐ近くから届く。
驚いて顔を上げる。
胸が小さく跳ねる。
それでも、
不思議と怖くはない。

「……誰?」

少しだけ間がある。

「城ノ縁。」

「それ、名前?」

「そう呼ばれることも
あるよ。」

紬には、
名前なのか、
この場所の呼び名なのか、
まだ分からない。

「少し、
疲れちゃったみたいだね。」

責めるでもなく、
心配しすぎるでもない。
答えを求める声でもない。
ただ、
急がなくていいと
言われたような、
静かな声だった。

第一章

後編① 書けない願い

紬は、
何も書かれていない短冊を、
そっと握り直す。

城ノ縁は、
湯呑みを両手で包み、
しばらく目を伏せている。

「書けないんだね。」

責める響きも、
答えを急かす気配もない。

紬は、
ためらうように、
ほんの少しうなずいてみせる。

「願いは……あるの。」

風に消えそうな、
かすかな声。

「でも……書いたら、
なくなっちゃいそうで。」

城ノ縁のまなざしが、
手の中の短冊へ
ゆっくり移っていく。

風に触れた、
白い紙の小さな揺れ。

「大事だから、
書けないこともあるよ。」

紬は、
城ノ縁を見上げる。

「……そうなの?」

城ノ縁は、
やさしく笑う。

蝉の声。
風鈴の澄んだ音。
葉が触れ合う、
かすかな響き。

どれも、
急ぐことを忘れたように、
静かに重なっている。

「その願い、
ずっと心の中に
しまってたんだね。」

紬は、
手の中の短冊へ
そっと目を落とす。

まだ、
声にはならない。

それでも、
胸の奥に、
かすかな揺らぎ。

城ノ縁は、
言葉を挟まず、
湯気の向こうで
目を細めている。

第一章

後編② 伝えたかった言葉

「願いってね。」

風鈴が小さく鳴る。

「書いたから、
叶うのかな。」

その音だけが、
二人のあいだに残る。

「本当は、
何て伝えたかったんだろうね。」

紬は、
手の中の短冊へ
そっと目を落とす。

「私……。」

しまっていた言葉が、
少しずつこぼれ始める。

「本当は、
美羽と仲直りしたい。」

「もう知らないって
言った時も、
本当はそんなこと、
思ってなかった。」

「『ごめん』って
送りたいのに……
送れなくて……。」

言葉が途切れる。
涙はこぼれない。

それでも、
胸の結び目が、
ほどけていく気配。

言葉の最後まで、
城ノ縁は、
耳を傾けている。

「仲直りしたいんだね。」

紬は、
ゆっくりうなずく。

「うん……。」

その返事は、
さっきよりも、
少しだけ素直だった。

小さく息をつき、
白い短冊を見つめる。

もう一度、
ゆっくり息を吸う。
小さく唇を結び、
口元に、かすかな笑み。

小さな画面を開き、
昨夜と同じ三文字を
並べる。

『ごめん。』

送信の文字へ、
そっと伸びる指先。

その手前で、
静かに止まる。

第一章

後編③ 白いままの願い

静かな時間。
葉が揺れ、
風鈴が一度だけ鳴る。

「……大丈夫。」

「大丈夫。」

紬は、
ゆっくり顔を上げる。

自分と同じ言葉が、
聞こえたような気がする。

城ノ縁は、
やさしく微笑んでいる。
その笑顔につられるように、
紬の口元にも、
かすかな笑み。

張りつめていた肩が、
ふっとゆるむ。

伸ばした指先に、
ほんの小さな動き。

『ごめん。』

紬は、
ゆっくり息を吐く。

白い短冊を手に、
もう一度だけ
城ノ縁を振り返る。

小さく手を振り、
坂を下りていく。

商店街へ戻ると、
いつもの夏の音が
紬を迎えてくれる。

笹の前で足を止め、
何も書かなかった短冊を、
そっと結ぶ。

そこには、
誰にも見えない願い。
白いまま、
風に揺れている。

紬の小さな背中は、
やがて、
夏の町の向こうへ。

百段坂には、
また、
葉の音だけが残る。

入口では、
ひとつの人影が
足を止めている。

その胸にも、
まだ言葉にならない何かが、
眠っているのかもしれない。

そして今日も、
城ノ縁は誰も呼ばず、
誰かを待っていた。

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