城丿縁 第一シーズン・第三章

言葉の行き先

全6話 読了目安 約15分

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第三章

第1話 手の中の封筒

九月に入っても、駅前には夏の熱が残っている。

夕方の光が、青い看板のパン屋の壁を斜めに照らす。焼けた小麦の匂いと、線路から上がる鉄の匂い。駅前の古い時計は、今日も三分遅れたままだ。

赤いポストの前に、一人の男が立っている。

四十代半ばほど。白いシャツの袖を二度折り、肩には使い込んだ鞄。片手には、角のそろった白い封筒。宛名も切手もある。

あとは、投函口へ入れるだけ。

男は、母の墓参りを終え、帰りの列車を待っていた。

この手紙を出すために、墓地から駅までずっと封筒を手にしてきた。それなのに、鉄の蓋へ触れた指先が、そこから先へ進まない。

改札へ向かう少年が、一度だけ男の横顔を振り返る。

男は気づかない。封筒の端を親指でなぞり、もう一度ポストへ手を伸ばす。

けれど、蓋は開かなかった。

正確には、男の手が開けなかった。

書き始めたのは昨夜。封をしたのは今朝。

書き直した便箋は、これで三枚目だった。

改札の電子音が鳴り、少年の姿が向こうへ消えていく。

それでも封筒は、手の中に残っている。

文字はすべて自分のものなのに、そこに書かれている言葉だけが、ひどく他人行儀に思えた。

第三章

第2話 書けていない言葉

ポストの横に、集荷時刻が小さく記されている。

次の集荷まで、あと十五分。

男は駅前の古いベンチに腰を下ろし、封筒の端へ指を入れた。糊の乾いた音が、思ったより大きく響く。

便箋の最初には、こうあった。

――お変わりなくお過ごしでしょうか。

その下には、季節の挨拶。仕事のこと。こちらは元気にしているという報告。

間違ったことは一つもない。

けれど何度読んでも、知らない人へ出す手紙のようだった。

便箋には、昔より角ばった自分の字が並んでいる。

子どもの頃は、もっと父の字に似ていた気がした。

書きたかったのは、そんな言葉ではない。

本当に書きたいことへ近づくほど、ペンは丁寧な言い回しへ逃げていく。

言葉を整えるほど、気持ちだけが後ろへ下がっていく。

やがて集荷の車が来て、ポストの中の郵便物を載せていった。

間に合わなかったのではない。

間に合わせなかったのだ。

しばらくして、帰るはずだった列車もホームの向こうへ消えていく。

男は便箋を折り直し、破れた封筒と一緒に鞄へしまった。

次の列車までは、一時間ほど。

立ち上がると、駅に背を向けた。

便箋に並んでいた、自分の角ばった文字が頭から離れない。

その字を覚えた頃に暮らしていた場所も、この町の中にある。

男は、昔の家があった場所へ続く道に足を向けた。

第三章

第3話 記憶にない坂

男の名は、直人。

先ほど駅で、自分の方を振り返った少年のことを、彼は知らない。

二十四年前、この町を離れた。

パン屋の角を曲がり、白い壁の建物を過ぎていく。細い住宅街へ入るにつれ、駅の放送は少しずつ遠のく。

昔の家があった場所には、見覚えのない家。

直人は足を止めず、その前を通り過ぎる。

家がなくなったことは、母の墓へ向かう途中ですでに見ていた。

それでも帰りに同じ道を選んだのは、あの頃の道を歩けば、忘れていた何かに触れられるような気がしたからだ。

歩くたび、鞄の中の手紙が脇腹へ当たる。

宛名の相手は、遠くで暮らす父。

父から届く年賀状には、いつも一行だけ。

――体に気をつけろ。

謝るでもなく、会いたいとも書かれていない。

その短い言葉が腹立たしくて、直人は一度も返事を出さずにきた。

町を歩いていると、
気づかないまま
通り過ぎてしまう坂がある。

何本目かの路地を曲がったところで、足が止まる。

塀と木陰の間には、上へ続く石段。

看板も、案内もない。

子どもの頃に何度も通った道のはずなのに、その坂だけが記憶の中にない。

坂の上から、涼しい風。

直人は顔を上げた。

木々の間へ続く石段が、さらに奥へとのびている。

少し迷った末、その一段目へ足を置く。

上るほど電車の音は遠のき、代わりに近くなる葉擦れの音。

残った蝉の声。その奥に重なる、名も知らない秋の虫の音。

数えていたはずの段数も、いつの間にか曖昧になっていた。

やがて視界が開く。

そこに、小さな祠と古い縁側。

軒下には、夏の名残の風鈴が一つ。

風を待つように、黙ったまま光っている。

第三章

第4話 新聞の向こう

縁側には、湯呑みが一つ。

誰かがいるようにも、ずっと空いていたようにも見える。

町から上がってくる夕方の風。

葉の隙間は、夏よりわずかに広い。遠くの屋根が、ところどころにのぞく。

直人が腰を下ろすと、古い床板が短く鳴る。

縁側の隅には、細長い白い紙。

七夕の短冊に似ているが、何も書かれていない。夕方の影が深くなるほど、その白さだけが、かえってはっきりしてくる。

「何もないな」

直人が呟くと、縁側の反対側で床板が一度鳴った。

誰かが腰を下ろしたような音。

振り向いた先、大木の影と木漏れ日の間に、白いものが揺れている。

衣服の裾にも、獣の尾の先にも見えた。

風が枝を動かすと、その輪郭も光の中へほどけていく。

「まだ、なのかもしれないね」

直人のものではない声。

空耳にしては近く、人の声にしては、どこから届いたのか分からない。

けれど、不思議と耳に残る。

直人は、白い短冊へもう一度目を戻す。

何も書かれていない紙と、書いたのに何も伝えていない手紙。

どちらが空白なのか、分からなくなる。

鞄から封筒を取り出し、膝の上に置く。

「言わなくても、伝わっていることってあるのかな」

問いかけたあとで、自分でも誰に尋ねたのか分からなくなった。

返事を待ったわけではない。

それでも、しばらくすると、またあの声がした。

「言葉にしなくても、何かは届いているのかもしれないね」

便箋に並ぶ、整いすぎた文字。

間違ったことは、一つも書かれていない。

けれど、本当に伝えたかったものは、どこにも見当たらない。

少し間を置き、同じ声が続く。

「でも、伝えたいものとは違うかもね」

風が、便箋の端を小さく持ち上げた。

二十四年前、町を出ると父へ告げた日のことが浮かんだ。

「都会で働くことにした」

父は新聞から目を上げなかった。

しばらくして、ひと言だけ。

「好きにしろ」

その言葉が、直人には「勝手に出ていけ」と聞こえた。

「もう戻らない」

直人も、それだけを返した。

本当は、行ってきますと言いたかった。

風鈴が一度鳴る。

直人は顔を上げた。

縁側の上には、揺れる木漏れ日だけ。

第三章

第5話 名前のはじまり

直人は、上ってきた坂を下りていく。

段数を数え直してみたが、やはり途中から分からない。

住宅街を抜け、白い壁の建物を過ぎる。パン屋の角を曲がった先、屋根の向こうに駅前の古い時計。

陽は傾き、町の影も長い。

次の列車までは、まだ三十分ほど。

直人は駅前のベンチに腰を下ろし、鞄から新しい便箋と封筒を取り出す。

父を許した、とは書かない。

父の気持ちが分かった、とも。

本当ではない言葉を足せば、また同じ手紙になる。

代わりに書くのは、覚えていること。

雨の日、傘を忘れた直人を、父が黙って迎えに来たこと。

濡れた作業着のまま、自分の傘を直人の方へ傾けていたこと。

帰り道に買った肉まんが、父の鞄の中で半分つぶれていたこと。

幼い頃、父の短い鉛筆を借り、新聞の余白に自分の名前を書いて練習したことも思い出す。

最初に、お手本として「直人」と書いたのは父。

自分の字の始まりには、父の字があった。

直人は、しばらく白い便箋を見つめたあと、ペンを動かす。

――父さんへ。

――あの日、本当は、行ってきますと言いたかった。

そこで一度、手が止まった。

遠くから、線路を走る列車の音。

直人はもう一度、ペンを取る。

――雨の日に迎えに来てくれたことを、今も覚えています。

――うれしかった。ありがとう。

長く空いた時間が、それだけで埋まるわけではない。

けれど、二十四年を埋めるための手紙ではなかった。

最後に、今の住所を書き添える。

第三章

第6話 小さな音

赤いポストの前に、夕方の影が長く伸びている。

青い看板のパン屋からは、焼けた小麦の匂い。

駅前の古い時計は、やはり三分遅れたまま。

直人の手には、新しい封筒がある。

先ほどと同じ場所。

同じ白い封筒。

けれど、その重さだけが違う。

父が読むかどうか。

返事を寄こすかどうか。

あの日の「好きにしろ」に、どんな思いが込められていたのか。

その答えは、まだ直人の手の届かない場所にある。

直人は、鉄の蓋へ手をかける。

今度は、指先が止まらない。

封筒が手を離れ、ポストの中へ落ちていく。

音は小さかった。

町の景色は、そのまま。

胸の奥にも、まだほどけていないものが残っている。

それでも直人は、空になった手をしばらく見つめた。

手紙が読まれる日も、そのとき父が何を思うのかも、直人には決められない。

やがて、列車が駅へ入ってくる。

直人は改札を抜け、今の暮らしへ続く列車に乗り込む。

窓の向こうで、赤いポストがゆっくり後ろへ流れていく。

振り返ることはなかった。

同じ頃、百段坂の上。

夕方の風が、祠の軒を抜けていく。

縁側の隅では、白い短冊が一度だけ揺れた。

そして今日も、城丿縁は誰も呼ばず、誰かを待っていた。

この物語から町を歩く

赤いポストが受け取ってきたもの

直人の手を離れた、小さな言葉。
その赤いポストが見てきた、町の記憶へ。

町の記憶を読む

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