空が明るくなる少し前。
駅前のパン屋では、
店の中だけに灯りがついている。
鉄板の音。
生地を台へ置く音。
まだ静かな通りへ流れる、
小麦とバターの匂い。
やがて、
青い看板が店先へ出される。
看板の裏には、小さな傷。
店の人は毎朝、
そこへ指をかける。
いつからある傷なのかを、
わざわざ尋ねる人はいない。
町には、
そういうものがいくつもある。
新しく見えるものにも、
少しずつ時間が重なっていく。
青い看板の前を、
何人もの人が通ってきた。
制服のまま、
小銭を握ってパンを買った人。
雨の日に、
軒先で少しだけ雨宿りした人。
初めて一人で買い物をした子。
仕事へ行く前、
同じ丸いパンを選び続けた人。
ある朝。
小さな子どもが
青い看板の前で立ち止まった。
店の中を指さして、
「いいにおい」
と言う。
隣を歩いていた人が、
少し笑って扉を開ける。
鈴が鳴る。
子どもはすぐに、
看板のことなど忘れて
棚のパンを見上げていた。
何年か経てば、
その子もこの町を離れるかもしれない。
あるいは毎朝、
同じ駅を使うようになるかもしれない。
町に残るかどうかは、
看板には分からない。
ただ朝になると、
店の人は青い看板を外へ出す。
駅前の古い時計は
今日も三分遅れている。
始発へ向かう足音。
扉の鈴。
紙袋の音。
「いつものをひとつ」
「いってらっしゃい」
短い言葉が交わされ、
一人が駅へ走っていく。
棚には、
パン一つ分の空白が残る。
その空白は、
次の焼き上がりで埋まる。
誰かが町を離れ、
誰かがまた戻ってくる朝にも、
青い看板は、
店先から
町の方を向いている。